友達の失恋をきっかけに自分を考える日々でございます。
私、外交的社交的なイメージと裏腹に実際内省的な人間なのですが
最近ますます自己分析をする日々であります。
しかし、これも職業病=自分を知ることができて人を知ることができる。
自分を大切にできない人は人を大切にできない。
というわけで、フロイド左派エーリッヒフロムの言葉をどうぞ。
けっこう痛いですよね。
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愛は、人間のなかにある能動的な力である。
人をほかの人々から隔てている壁をぶち破る力であり、
人と人を結びつける力である。
愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。
そのなかに“落ちる”ものではなく、
“みずから踏みこむ”ものである。
たくさん持っている人が豊かなのではなく、
たくさん与える人が豊かなのだ。
もらうために与えるのではない。
与えること自体がこのうえない喜びなのだ。
愛とは愛を生む力であり、
愛せないということは愛を生むことができないということである。
愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。
愛と労働は分かちがたいものである。
人は、何かのために働いたらその何かを愛し、
また、愛するもののために働くのである。
“愛は自由の子”であり、けっして支配の子ではない。
神学の論理的帰結が神秘主義であるように、
心理学の究極の帰結は愛である。
一人の人をほんとうに愛するとは、
すべての人を愛することであり、世界を愛し、生命を愛することである。
自分の役に立たない者を愛するときにはじめて、愛は開花する。
愛情深い母親になれるかなれないかは、
すすんで別離に堪えるかどうか、
そして別離の後も変わらず愛しつづけることができるかどうかによるのである。
誰かを愛するというのはたんなる激しい感情ではない。
それは決意であり、決断であり、約束である。
もし愛がたんなる感情にすぎないとしたら、
“あなたを永遠に愛します”という約束はなんの根拠もないことになる。
愛は誰かに影響されて生まれるものではなく、
自分自身の愛する能力にもとづいて、
愛する人の成長と幸福を積極的に求めることである。
一人の人間を愛するということは、人間そのものを愛することでもある。
利己的な人は、自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎるのである。
いや実際のところ、彼は自分を憎んでいるのだ。
愛の技術の習練という問題に立ち向かうことにする。
…技術の習練には規律が必要である。
規律正しくやらなければ、どんなことでも絶対に上達しない。
“気分が乗っている”ときにだけやるのでは、
楽しい趣味にはなりうるかもしれないが、
そんなやり方では絶対にその技術を習得することはできない。
一人でいられる能力こそ、愛する能力の前提条件なのだ。
自分自身を“信じている”者だけが、
他人にたいして誠実になれる。
他人を「信じる」ことのもうひとつの意味は、
他人の可能性を「信じる」ことである。
愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、
こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、
全面的に自分をゆだねることである。
愛とは信念の行為であり、
わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。
エーリッヒ・フロム【愛するということ】より