先回のワークショップ=人生の脚本、自分の脚本について。
まず、これはあくまで交流分析の考え方である「人生には脚本がある、そしてそれは10人いれば10通り、100人いれば100通り、ひとつとして同じものはない」というものです。
ですから納得するしないはともかく、もし人生に脚本があったら、、、という前提で考えてくださいね。
皆さんは当然人間です。
しかし人間として産まれてきたから人間に育つわけではありません。
オギャーっと生まれた段階では、どこの幼稚園に行くのか、どの服を着るのか、なにをどう食べるのか、その前に目さえも開いていなく、歩くこともできなかったですよね。
人間が人間としての営みをするためには、親や養育者の存在が欠かせず、非常に大きな影響を与えています。
人間の子は母体の関係上、他の哺乳類よりも未熟な状態で生まれるため、誰かの庇護がない限り生きていくことはできません。
しかしここからが問題です。どのように育っていくかは、その子の資質もさることながら養育者の影響が非常に大きいです。
放置された子や虐待された子の著しい心身発達の未熟は知られたことです。
仮に親の知能が非常に高かろうとその暮らしが豊かだろうと、食事だけを与えられてあとは放置された子;声をかけられず、抱かれず育った子も、やはり心身の発達未熟が見られるといいます。
このように人間の子が人間として育つためには養育者がいて初めて、その生を授かるとも言えましょう。
と、幸い、ごくごくフツウの家庭に生まれ育ったとして、なぜ皆その生き様がこう大きく違ってくるのでしょう、それぞれの脚本はどのように形成されたのでしょう。
子にとって親というのは全能の存在で、全宇宙です。
しゃべることはおろか歩くこともできない赤子は、自分が生き延びるためには、その親とおぼしき養育者に自分の存在を知らしめ認めてもらわないとなりません。
赤子にできることは泣くことだけですが、必死で親の愛を求め自分の欲求を訴え続けます。
しかしそこで親がその子を放置したら?そこで親がその子の望むことと違うことをしたら?そこで親が過剰に反応を示したら?
子供は自分の意図と違う反応が返ってきたとしても、生きていかなくてはいけませんので、自分で自分なりに生きて行くための決断をします。
放置されたまま死を感じ絶望を味わう子、放置されながらまだ知らぬ世界に対する怒りを感じる子。その後どう生きるかを決断していきます。
もちろん赤子;幼児ですからそこまで明確な意思や感情があるかといえばわかりません。しかし自分が泣いたとき誰も来ないどころか、そこは暗く冷たい寂しい場所だということを感じたときに、人生に対してどういう思いを抱くのか、、、、想像するのはあまりに残酷です。
まあそれは極端な例ですが、子供の振れ幅は非常に大きいということです。
また親が絶対的、全能なものであるのと同じく、子は自分が全能であると思い込む場合もあります。
「親の喧嘩が絶えないのは私が女だったからだ。おじいちゃんは男の子がいいって言っていたんだって。」
その子は親が喧嘩するのは自分の性が女だったためと考えています。
また特定のことをきっかけに広く世界を判断してしまうこともあります。
たとえば母子家庭の男の子が、母親が普段自分に見せるのと違う顔=母親の女性性を感じてしまったとき、女はなんてふしだらなんだとショックを受け女性不審になったり女性がなんとなく怖くなったりうることもあります。
わかりやすい例では、オネエチャンだから、男の子だからわかったよね、なんて言われて育った方は自分でオネエチャンだからと言い聞かせ、聞き分け良い子でいる限り愛されると信じて生きていくようになります。
今日お話したのは生まれたときから幼児期までに、子は自分でも意識せずに生き方を決断しているという話でしたが、今挙げた例はあくまでそういうケースもありうるということで、まさに脚本は人それぞれです。
長くなりましたので続きは次回。
7月の自己理解と癒しのワークショップは色とお花の癒しのワークショップです。お楽しみに。
メッセージは cocorofuwafuwaアットyahoo.co.jp
こころのことはハーティ新宿へ
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます→
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